昭和47年02月18日 朝の御理解



 御神訓 一、
 「疑いをはなれて、広き真の大道を開き見よ。わが身は神徳の中に生かされてあり。」
 わが身は神徳の中に生かされてあり、そこの感じが段々強くなって来る。成程神様の御懐の中だなと。天地は神様の御懐の中だと、丁度赤子が母親の懐の中でお腹が空けば、そのまま、母親の乳房に縋れる様に、私共は何時でもどこでも天地金乃神様のおかげに、お働きに縋り出来るのだ。そしてお乳が与えられる様に、お乳がおかげが頂ける、初めてそこに、成程神様のおかげじゃなあ、神様のお働きの中にあるのだなと解った時に、わが身が神徳の中に生かされてある事を解る。
 そこから、いわゆる日々が神恩奉謝の生活が出来る訳なのです。ですから今日は、この疑いを放れてと云う事なんですけどね、皆さんこうやって朝の御祈念に参っておられるが、神様を疑っておるという方はありますまい。ある意味でやはり神様を信じ、神様ありと段々解っておいでられておる。けどそれが段々本当なものになって来る。本当に我が身は御神徳の中に生かされてあると。やっぱり生かされて生きておるのだと、云う事を解らせてもらう時にです、ね。
 疑いと云う様な物は無くなって来る訳です。ですから、お互いという言葉が当たるかどうか知れませんけれども。段々信心を頂いて参りましたらね、そこに最近言われておる、「観念のお供えをせろ」とこう言う。ですから、観念のお供えを致して行きます事を、本気で稽古して行かなければいけない。今朝、私御礼を申させて頂きよりましたら、日田の綾部さんが、なんとも言えん可愛らしい姿ですね、可愛らしいと言えば何ですが。そして、観念のお供えを頂きました様に、自然にと言うでしょうね。
 丁度新田義貞が黄金造りの太刀を海に投じておる様な姿でね、小さい小さい巻物をこうやって投じておる所を頂いた。だから本気で自分の観念のお供えをさせて頂こうと精進する姿は、神様の目から御覧になって、もう素晴らしい、可愛いものに見えるらしいですね。本気で神様が解りたい。本気で神様を信じたい。本気でわが身は神徳の中に生かされてある。その喜びを頂きたいと願う所から、小さい事から観念のお供えを段々して行こうとする。その、そういう姿が信心に精進している人の姿なんです。
 もう三年位でしょうか綾部さんの信心は、その解らんなりに、出来んなりに、段々お参りをして行かれる内に、教えを、それはもう本当にあのう毎日参って見えてからあのう、御理解を真剣に頂かれましてですね。高芝さんも一緒にお参りになりますが、高芝さんは滅多に頂かれません。一緒に家に帰らにゃいかんから、一緒にあそこで頂かれたら良かろう所に、もうわ解っとると言う所でしょうか、あまりそういう態度です。綾部さんはもうどんなに忙しかっても、御理解だけは必ずきちっと頂いて帰られます。
 最近言っておられる事に、例えばお店の上に大変な問題が次々と起きて参りますけれども、その都度にやはりおかげを頂いて、成程親先生の仰る通りにしとけばと言う様な物が本気で出来よんなさる。その問題は、そして段々大きくなるという感じ。それでもね、それはもう自分の知恵やら才覚やらは全て捨ててしまって、とにかく神様にお縋りしようといった姿勢を作っておられる。所がもう自分の子供の事になると、どうしてこんなに人間心を使わんならんだろうかと云う様にあります、と言っておられます。
 神様が、そんなに問題ない、間違いないお方なら、子供の事だってもうお任せしたら良いでしょう。けれども子供の事になると、まだまだ親が、ああも言うてやりたい、こうもしてやりたい。そげな事じゃいかんと思うたら、そのまあ、言うなら御商売の事は神様にお任せ出来るけれども、子供の事はと。まあ、周りの事がすっきりした事ではありませんでしょうけれども、取り組んでおる姿と云う物は、神様の目から御覧になると、本当に目を細うして、神様が御覧になっておられるであろうと思うですね。
 私共がいよいよ、神様のおかげを頂きたいと言う人は、一生懸命の姿がありますけどね、それは私は、神様の大した魅力じゃないと思うですね。所がつうと行って、神様に願う縋るというだけであった。けども本当に神様の心が解りたい、言うならばわが身は神徳の中に、本当に生かされてある事を、解らせて頂きたい。そこから、神様のおかげを頂かなければ、此処一寸動ける事ではないと云う様な、事実を実感する時にです日々刻々がね、有り難いものである。
 いわゆるわが身は、神徳の中に生かされてあるという喜びを、心に一杯感ずる事が出来る。ですから、本当の信心に取り組む事が出来る所から、色々な毎日御教えを頂きましてから、その言わば、真の信心への取り組み方を、教えて頂く訳ですけども。例えば疑いを放れてと。「いや私は疑うとりません」と言うてもです、実を言うたら、今日の御理解から行くと、もう疑いの方が大きのです、疑いの方が。その証拠に外し切らんじゃないか。もう是を外したらね、もう困る様に思うのです。
 限りなく無尽蔵に、神様がおかげを下さるという事実をです、本当に私共が体験させて頂くと言う事はです、此処でもそういう幾人もの方があります。毎日お参りされて。現在の皆さんの、その方達の信心生活の状態から言うてです、日々是だけの例えばお初穂の御供をしよんなさるがと、例えば心配なるごとある。今日はもうぎりぎりでしたから、財布は空になった様にあるけどももう不思議に、思議に神様がちゃんと明くる日のお供えだけはちゃんと用意して下さる。
 そうすると百円御供しよった人が、五百円はなして見る稽古が必要である。五百円離しておった人なら千円離して見る稽古が必要である。そして一万円も毎日離さして頂く事が出来るだから稽古がなのである。初めからしよるとやり損なう。だからそういう姿勢を作らにゃ駄目。そういう姿勢を作る事が神様の本当に可愛いものじゃと言うかね。例えば今日の頂いた様にもう綾部さんがもうそれこそ可愛いらしい、可愛らしい姿でね所謂観念のお供えを、小さい巻物をこうやってお供えして行きよんなさる。
 それが段々段々大きな言うなら巻物になって来るでしょう。そして此の事だけには確信が持てると言った様な性格が出来て来る様になるでしょう。だから疑うとらん様にあって、疑うとる証拠なんですよ。だからその疑いを外して行く稽古をしなければ、わが身は神徳の中に生かされてあると云う事にならんのです。しかもね、その間、恐らく私だってそうです。私だからもう出来上がってしもうとる所じゃありません。
 恐らく一生かかってです、今言う段々段々まあ是は、数字を以て言うたら一番解り易いから、金銭の事を以て申しますならです、百円放せよった者が千円放せる様になり、一万円放される様になり、しかもそれが限りなく与えられて行くおかげを頂くなら、百円よりも千円が良いでしょう。千円よりも一万円の方が良うはないでしょうか。だから、その為にでも、要は此処ん所の稽古をなされて行かねばなりません。
 そして成程神様というお方は、いよいよ間違いないお方だという考え方です。わが身は、神徳の中に生かされてあるんだなと、云う事になるのです。神様が、例えば私共が生きとるのじゃない、生かされて生きとるのだと。だから、本当に生かされておるのであろうかと。私はそこに疑問を感じなければいけん。そしてです、その疑いを段々小さいものに、いや、確かにそうだという確信を、作って行かねばいけません。
 高橋正雄先生という教団きっての偉い先生がおられました。先年亡くなられましたけれども、先生が青年の、いわゆる求道に燃えておられる時分に、高橋正雄先生の縄帯時代というのがありますね。もうそれこそ与えられるだけの事、本当に神様が生かして御座ると言うが、本当に生かして御座るかどうかと云う事を、言うならば確かめて見たい。それを真剣に取り組まれたんですね、高橋正雄先生は。
 昨日こんな事があった。昨日、小野先生の所の長男の博昭君が、今こちらへ帰って来とります。今度大学を受験するんです。まあ、猛勉強やっています。なんという本か知りませんが、こんなに厚い本に、まあ、小さい字で書いた本を一冊持って来ました。大きな本です。「親先生お願いがあります」とえらい意気込んで言うのですよ。「何ね」と私が言いました。この中から、四ヶ所ばかり、僕が勉強せんならん所を、はっきり示して下さいと云う訳です。
 本当に、無茶苦茶なお願いだなと思いましたけれども、神様はそれでも、そげな事はないと仰ゃらんです。ああそうねと言うて、四ヶ所とは言わんで五ヶ所だけ、此処と、此処と、此処を、特別勉強せろと云う所を頂きました。そう云う事によって、博昭君がいよいよ神様に、神様ちゃ間違いないなぁと、云うものを信じれる様になったら、どんな事になるでしょうか。
 だから、皆さんそれを真似しちゃ出来ませんよ、そう云う事は。家に子供は試験ですけん、ここの教科書の中の何処と何処が出ますじゃろうかと、お願いすればそれは事実ですね、それは出来るです、本当は。なぜって、私は毎日こうやって御理解を聞いて頂いとるのは、私が神様の前で頂いた事と、これを神ながらに此処を見せて頂いた所が、必ず御理解に出て来る所を見るとですたい。これと一分一里間違いないです。だからと、それが信心ではないです。
 親先生、百万円の宝くじ買うと、今ごろ百万円の宝くじはないでしょうね。七百万も一千万もの宝くじがあるでしょうが。買いたいと思うが何番ば買うたら良いでしょうかと云う事に迄なりかねないです。ですからね、そう云う事。けれどもね、疑問を晴らして行く為にはです、そういう打ち込みが要るです。だから、打ち込むなら打ち込む様に、本気で打ち込んだ姿と云う物がそこになからにゃいけんです。もう大変な私は努力が要ったと思うです。博昭君がその事をお願いに参りましたのは。
 それを例えば、高橋正雄先生あたりの場合にはです。本当に神様が生かして下さると仰るが、本当に神様が生かして下さるかどうかと、まあ疑われた訳ではないでしょうけれども、本当に与えられるか何かをです、神様に与えられたかどうかを、所謂求道ですね、道を求める姿勢にそういう縄帯時代という時代があった。与えられる物しか着らん、与えられる物だけしか食べられん、そして一生懸命精進をなさった。
 もう行き当たりばったり、もう何処でもない、ドブさらいをなさったり道を修繕したり、又は掃いたりされておられた。そういう修行なさった。所が全然見も知らない人が、本当にご苦労様ですと、まあちょっとお寄りなさいませんかと言うてはお茶を出す所がある。お茶菓子を出す所がある。食べ物、色々ご飯まで召し上がらんかと出してもらう所がある。それがもうきっちりその与えられておいでられる所からです、高橋正雄先生の信心が生まれた訳です。
 成程神様はです働かなければ働かなければと云う事はね、例えば百姓が百姓をしなければ食べられん。商売人が商売をしなければ食べられんと云う事じゃない。ただ一生懸命に御用さえしておれば良いと云う所に先生の信心があった訳です。それは金になる事でもなければ、それが食べ物が交換条件でもない所でですただ一生懸命御用さえして頂いておればです、神様が食べささねばおかんという働きがある事を実感された。
 素晴らしいですね人間と云う物は、はあちょっとお参りしようと思うけど、商売が忙しうてこうと。是はまだ神様を疑うとる証拠です。言うならば、今日はまあ言うならば、まあ、ギリギリの所ですからね。間違いなく頂いて下さい。ならば今日から商売を止めちから、いっちょお参りだけに一生懸命になろうと。それはね出来ん事はありません。けれども、それは一足飛びにはいけません。それを少しずつして行く稽古をしなければいけません。観念のお供えが出来る。
 成程人間が干乾かしになると言うのは、ただ生かせにゃおかんという働きはあるけれども、それを受ける心を作ってない。本気でそこに例えば、一生懸命の御用さえさして頂いておればです。それは道修繕であろうが、ドブさらえであろうがです。別に市役所から雇われた訳ではなくてもです、それが信心でなされる時です。必ずそれは言わば食べさせねばおかん。生かさにゃおかんという必ず体験をするでしょう。
 私共、そういう意味でそう言う所をしっかり通らせて頂いとるおかげで、誰よりも観念の御供が大きいお供えが出来とると思います自分で。ですから一足飛びでなく、だから少しづつでもよいからね、自分の力を言うなら、試すというかまあ、是を、ある意味では神様を試すとい事になるかも知れません。成程、神様が限りなく、無尽蔵に、こちらの受けものが大きければ大きく頂けるんだという、私はおかげを頂くために、ただ今申します様な、観念の御供をしなければいけません。
 その観念の御供をしようとするその精進の努力するその姿こそ神様がね、いわゆる可愛い氏子として、お喜び下さる。そう云う信心の、姿こそ神様が喜んで下さる。二、三日になりますか、合楽の食堂の中村さんが、お母さんの事のお願いをされた。もう九十幾つになられる。乳ガンで、言うなら、医者から見放された方が、いわゆる中村さんの一生懸命の信心で、おかげを頂いて。
 そして、今日までおかげを受けておられる。所が、この頃非常に弱られた。弱られると同時にやっぱり年寄りの愚痴が出る。どうぞ健康のおかげを頂きます様にとお願いがありましたから、私は申しました。「中村さん、あなた方のおばあちゃんな、もうお願いじゃいかんよ」ち。言うなら、無い命を頂いてもう何年になるかね。五、六年になりましょうか、無い命を頂いて、今日まで長生きのおかげを頂いて。
 まあ言うならば、九十何年間という永い間のお生かしのおかげ頂いて、しかもあの様な助からん所を助かる程しのおかげを頂いとるのであるから、今日生きておられると云う事だけでも大変な事なんだ。だから、その事のお礼を申し上げねばいかん。「もうおばあちゃんのことはお礼だけで良うなかろうか」と、私が。翌日からお初穂が、母の健康お礼と云う事に変わって来た。
 翌日参って来て、親先生、本当に神様は打てば響くごとあるですと、あのお届けをさして頂く様になって帰ったら、おばあちゃんが布団縫いをなさったと。本当にこの神様ばかりは恐れ入りますと、こう言われる。願いの信心から、お礼の信心に変わった途端に、おかげを受けとる。成程すると此の事だけではない、本当に私共がおかげ受けとるという事実、実感をです。商売の上にでも頂かんならんけん、お供えするじゃない、お礼の印にという実感になって来たら、おかげはもっと素晴らしい事になるでしょうね。
 是は昨日、やはり合楽の野口さん、一昨日の事で御座いましょう。北九州の方へ行っております娘さんから電話が掛かって来た。淑子さんというお孫さんが風邪をひいてから四十度から熱がある。気が気ではない。お婆ちゃんに来てくれと、こう云う訳である。神様にお願いして、その事をお願いして下さい。そして、まあ、母親一人では心細い、お婆ちゃんに来て下さいと言う願いがあったという、お届けが御座いました。
 そして私その事をお願いさして頂きましたら、一生懸命自転車を踏んでおられる姿を頂いたから、「野口さん、あんたが北九州の方へ孫を見に行くとか、養生の手伝いに行くと云う事はね、信心のある者が行くだけでもそれはおかげを受けましょうけどね。それは丁度自転車で一生懸命はずみよる様なもの。そんなら家から拝んで、家から願うと云う事は、それに対してどう云う事かは頂かんけど、まあ、私の考えじゃ、家から願うとか、家から拝む事は、自転車を自分で踏むのじゃない。
 神様のお徳の船に乗せてもらう様な物じゃなかろうかね」と言うてから申しました事です。やはり自分としても可愛い孫、可愛い娘が難儀をしておるのであるから、ちょいと行って見てやりたい。なるほどおかげは頂きましょう。けれどもね、観念のお供えをする事は出来ません、それでは。親先生がそう言うて頂いたからと言うて、帰ってすぐ家の者にその事を話させて頂いたら、昨日合楽会で御座いましたから、出席しておられたから、その事を話しておられた。
 もう本当に恐れ入りますと、今日はあちらの方から、電話が掛かって参りましてから、「おかげ頂いてから、四十度からの熱があったのが、熱が下がっておるから御礼申し上げてくれ。」と云う事であった。成程それはお互いのね、北九州までの旅費とか位の事ではない。行って見れば娘も喜ぶだろう、また孫も喜ぶだろう、もちろん御神米でも、頂いて行っておかげを頂くだろうけれども、それではね、神様が喜びなさる様な、おかげになって来んのですよ。
 成程ほんな事私が行った所で何が出来るか、氷嚢どん取り替えてやったり、御神米ども与えたり、そして頂いた御理解を説いて聞かせる位の事じゃろうもん。出来た所で。けれどもですね、そういう例えば観念を捨ててから神様に縋る所にです、もう北九州の方ではおかげを頂いておった、だけではない、野口さんの心に頂かれた、成程わが身は神徳の中に生かされてあるという。ささやかな言うなら信心ではあってもです、神様の間違いなさをです体験する事が出来る。それがおかげなのです本当は。
 それが素晴らしいんですよ。ね。疑いを放れて、成程私共は神様を疑うとらんからこそ、こうしてお縋りもし拝みもしよるけれども、厳密に申しましてです。観念がある間はやはり疑うとると云う事になるのです。だから、その観念がです、一から十、十よりも百と云う様に、観念が段々稽古によって外されて行く時にです。それこそ神様の前にね、御礼参拝を、本当に繰り返したい思い。言うならば好きな事に没頭出来る程素晴らしい事はないですよね。信心が好きになる。
 玉水教会の御信者さんの話がありますね、呉服屋さんです。朝の御祈願に参られて、帰られるともうお客に来て頂いとる。それからまたお礼に行きなさる。帰るとまた繁盛しよる。またお礼参りせにゃいかん。もうそげん教会参りに掛っとんなさらんでん、まあ晩なら晩一回お礼参りをなさったらどうですかと、言われたという話があります。解りますね、お願い参りよりよりも、お礼参りで参らにゃおられん程どの位のおかげやら解らんですよね。成程教会参りに掛っておると言う事の方がです。
 自分が居ってこう指図せにゃならん。こう言わにゃならんと言う様な観念を捨てた姿です。皆さんのね信心の程度の所からですね、本当に一つ小さい所からでも良いから、本気でおかげを頂いて観念のお供えをして頂きたい。その為には本気で願わにゃいかん本気で縋らにゃいけん。神様からこの命は頂いた。神様からこの体は作って下さったんだと頂いておる。そんならこの神様に修繕して頂いたが一番間違いがない。
 そう云ういわば答えが出て来る訳です。けども神様から頂いておる、神様が作んなさった体であっても、やっぱり人間に修繕して貰いたくなるのが、医者にかかる薬を飲む事です。飲んじゃならんじゃないですよ、飲みながらでも良いですよ。けどそれを少しずつです、自分のものにして行けというのですよ。まあちょっと風邪ぐらいの時には風邪薬と言わずにです、まあ、風邪ぐらい、まあ風邪は万病の元なんですけど。
 まあ言うならば小さい所から言うならです、まあおかげで風邪位の事ならおかげ頂いて御神米で、御神酒さんでおかげを頂けれる確信が出来た。それが段々一つもちっと大きなものになって行かにゃいけんです。そこん所をです私は観念のお供えして行く事だと。私共はそう言う風に頂いて、神様がこの命を下さった。この体は神様が造んなさった。そんなら造り主の神様に修繕してもらったが一番良いという話は聞いておったけれども、それを本当にそうだなあと解る為にです、私共は修行させて頂いたね。
 中島の上滝さんなんか、もう時間の問題という時に、医大のそん時肺病の権威の先生が見えた「もう時間の問題だ」と言うて帰られた。その後に私がお導きにお話にやらせて頂いた。とても是が助かるてんなんてん、どげん考えたっちゃ、素人が見ても考えられないけれども、その時私は思った。本当に神様が助けて下さると言う。この命を造り、体を作って下さった神様なら、神様に修繕をお願いをしておかげを頂けるかどうか、一つ本気でお縋りして見ようと。
 いわゆる赤の他人の上滝さんの事をそれこそ一生懸命で願ったです、もうそん時にはあらゆる修行をさせて頂いた。私の、例えば成程この体は神様が造んなさったのだなあという実感はですね、上滝さんによって出来たと言うても良い位です。だからその為の、それが赤の他人の誰彼の為のです、祈りならばです、祈るだけではいかん。それに修行の伴うたね、おかげを頂かしてもろうてです、成程神様じゃなあという実感を造って行く事が力なのです。私は神様に申し上げました。
 「神様、あなたがこの体を作ったと御教えを頂いとりますが、本当に作って下さったかどうか、此処で私は、上滝勇を助けて頂いたらです、それを信じ申し上げる事が出来るのです、神様を。その為に私はどういう犠牲も払いましょう。どんな修行もさせて頂きましょう」と言う、”はまり”なんです。そこから只本当に奇蹟、また奇蹟と言わなければおられない程しにおかげ頂いた。
 一年後には西鉄に復職するという程しのおかげを頂いた。良くなって来た中ばに、今の中に肋骨を何本か取ると、そういう荒療治する治療法があるからと言うてその、途中で大変勧められた事があった。けれども私はもうその時に、それに燃えておりましたからね。神様が此処まで助けて下さったのだから、そんな事する事はいらんと云う事であった。だからそれは私はもう強く手術する事をさせませんでした。西鉄に復職する時に所謂影がなかったと言う、必ずこの胸の病気と云う物は影が残るんだそうです。
 だが影が無かったと。本人が「だから私は肺病じゃなかったのじゃろう」と後から言う位におかげを頂とった。成程神様の御手に縋ってですおかげを頂いたら、成程どげな事でも出来るというその事実をね、体験の上に頂かしてもらうと云う事がです。成程それは本当だと信ずる事が出来る訳なんです。成程神様がこの肉体もこの命を与えておって下さるのだ。造って下さるんだと云う事が確信が持てたら。
 所謂そればってんやっぱり医者にも掛からにゃ、薬も飲まにゃと呪いもせにゃんと云う様な事では、言わば神様を疑うとると云う事。だから疑いをはなれて成程神様ちゃもう本当に素晴らしいお方だなと解る事がです、わが身は神徳の中に生かされてあると云う事なのであります。それが解ると云う事です。肉体この体の事だけではありません。金銭の事だけではありませんもう全ての事にです。私共が様々な難儀に直面しておる時には、もうその事はあなたが本気で稽古しても良い時なのです言うならば。
 だから手の届かんごたる事を一ぺんにポンとやると、やりそこなうからね、まあ金銭で言うなら百円から二百円、二百円から三百円という風にです。成程神様が私に三百円だけなら、無尽蔵に下さるなあと言う実感。そんなら、五百円にいっちょして見て、五百円だけは神様が無尽蔵に下さるなあと言う様なね、おかげを頂く時にです。わが身は神徳の中に生かされてあると云う、その神徳の範囲がです、広くなってく来る訳です。もう本当にね、例えば最近は宅祭から宅祭が皆さんの所であっとりますけど。
 宅祭なんかでも自分がしよう等とは、自分の才覚でしようと云う様な事では駄目です。だからもういっちょもお金かけんな。神様にお願いしますだけではいかんけれども、けれども無いならそれで良いです。私の一番修行中の時分の宅祭は、宅祭では一番お参りが多い四十名からありました。一番最後、親先生最後に来て頂いた時に、だからもう母やら家内やらが、宅祭りしても御直会に何を出すのと言って、茶粥さんでも良いじゃないか、一杯づつ差し上げればと云う様な。
 とにかく神様にお願いしての事であった。さあいよいよお祭が間近になったらね、いろいろのものが集まって来るこつ、集まって来るこつ。ばさらか、それこそ大盛りにでもせにゃならんごと集まった。海山川の様様のものというのが。とてもお餅どもつかれるという状態じゃなかったけれども、ちょうど親戚からこん位ばっかりの、あれ何ちゅ言いますか嫁さんが里帰りした時に配る、紅白の中にあんこの入っとるお鏡さんをではあったけれども、お供えが出来た。
 川のものというたら其の日に、ある所に行ったらお茶受けが出来た。お茶受けがわりに川魚が出た。はやが。はあー私はその時に思うた。是が今度の宅祭の川のものだと思うた。だから勿論魚はあまり頂きませんから、これはもう折角じゃけん頂いて行こうと言うて頂いて帰って。川のものは、はやの煮付の物であった。それこそ海山川の様々のものが、それこそ神様のおかげで集まった。御直会も茶粥を出す事は要らなかった。親先生には丁度、どこからか折り詰めば頂いた。
 大きなお配りをだからそれを母と家内が適当に味を付け直したりなんかしてから、丁度親先生だけにはお膳が一人分出来るだけにおかげ頂いた。そこでです成程お金が無からなければ、宅祭が出来んと御云う事は絶対ないと言う事が、確信の上に確信を頂いた訳なんです。その替わりには宅祭なら本当に宅祭としての頂けるだけの一生懸命の修行させて頂いた。それが今今日合楽の例えば御供ものにも繋がっとるでしょうが。ね。
 小倉あたりで教会でお供え物を大祭の時に、お供えの物を買われないというのはここだけでしょう。それこそ海山川の様々のもの、それこそ世界の銘酒、世界の名品と云う様な物が、御大祭ともなると、どこからともなくどんどん集まって来るでしょう。だからお金があってからと言うのは是は横着です。けれどもお金が無い、それでも宅祭がさして頂きたいなら、そういう私は意気盛んな燃える心でお願いしとけば、成程お祈りは神様がさして下さるのだなーと云う事が解る。
 金が無けれねば出来んという観念を捨て切ってしまう稽古をね、いろんなものにさしてもらわにゃいかんです。その観念のお供えが出来る所から、限りないおかげに繋がって行く所の、いわゆるわが身は神徳の中に生かされてある所の喜びを、愈々謳歌出来る所の信心生活が出来るのです。疑いを放れて、誰も皆さんに神様を疑うとんなさるとは思われません。けれどもそんなら、今日の例えば観念のお供えから言うとです。
 まだまだ神様を此処迄は信じとるばってん、これから先は信じきっとらん子おがある事は、やはり疑うとる事ですから。それを一部ずつでも、一厘ずつでも良いから、ね。疑いの心と云う物を外して行くおかげを頂いて行く、そういう精進をなされなければいけません。お初穂はいーつも百円、お初穂はいーつも千円、それじゃーいけません。それが段々、去年が百円なら今年は三百円と云う様にです。
 だから稽古なのですから。そこでお願いをせんならんから、丸きりお願いの為の切手のごと此処で御供する事じゃなくて。中村さんの例えじゃないけれども、お願いから御礼のしるしと云う事になって来る時に、おかげがはっきりしとる様にです、いろいろ工夫さしてもらって、成程お供えは私がしよるとじゃない、神様がさして下さりよるとじゃなあと。そげん言ったちゃそればってん、月に是だけしか入らん事なっとりますけんと、自分で決めておる事云う事がもう観念なのです。
 そげな事じゃない、限りなく無尽蔵に頂けるのだ。それを少しづつからでもです、成程百円だけは神様が限りなく下さるのだ。千円だけは神様が限りなく下さるんだというのを、段々大きくして行くと云う事は観念のお供えをして行くと云う事から頂けて来る様になるのです。疑いを放れて広き真の大道をひらき見よ、わが身は神徳の中に生かされてあり、いよいよ御神徳の中に生かされてある喜びを一杯感じさせて頂いての、信心生活が願われなければ行けませんですね。
   どうぞ。